落語家・林家たい平(前編)
- Sketch Creators Vol.1
「落語で人の心をデザインする」

sketch(スケッチ)とは、人物や風景などを描写すること。連載インタビュー企画「スケッチクリエイターズ」では、素晴らしいクリエイションを生み出すさまざまなクリエイターへのインタビューを通じ、彼らの創作の背景を言葉と写真で写しとっていきます。

第1回目にご登場いただくのは、落語家の林家たい平師匠。たい平師匠は武蔵野美術大学を卒業後、落語の世界に入られました。前編では、たい平師匠が落語家を志すまでの道のりをお伺いしていきます。

金八先生に憧れ、教師を目指した学生時代

たい平師匠の子ども時代のお話をお聞かせください。

僕が生まれ育ったのは埼玉県秩父市。自然豊かな環境で、山や川、お寺の境内など、野生児のごとく遊んでいました。父はテーラーを営んでおり、母とともに毎日大忙し。とくに母は社交的な人だったこともあり、うちにはいつもたくさんの人が集まっていたんです。家の前のアパートに住む独身のお姉さんとお兄さんは、「かあゃん、ただいま!」と僕の家に帰ってきていましたから(笑)。そして忙しい両親に代わり、僕にごはんを食べさせ、お風呂に入れ、寝かしつけまでしてくれました。ご近所の方々も、宿題をみてくれたり、夕食を食べさせてくれたりと、僕は地域の方々に育てていただいたんです。しかしそれは両親が周囲の方々に当たり前のようにしていることが、自分に還ってきているだけなんだと、子ども心にも分かっていましたね。

まるで落語の舞台となる、長屋での暮らしのようですね。将来の夢はありましたか?

僕は政治家になりたかったんです。というより、荒船清十郎先生になりたかった。荒船先生は秩父出身の偉人でして、もちろん両親も応援していましたし、国会中継で放映されるご活躍の様子が非常にカッコよかったんですね。小学校の卒業文集でも将来の夢について「荒船清十郎になる」と書いたのですが、先生に「国会議員になる」に修正されてしまったんですよ。「僕は国会議員になりたいのではなく、荒船清十郎になりたいんです!」と先生に抗議をしたものの受け入れられず、どうも政治色が強かったみたいですね(笑)。

中学へ上がると熱血教師ドラマに影響を受け、学校の先生になろうと考えました。いまの学園モノって、ちょっとひねくれた設定の教師像が多いじゃないですか(笑)。僕らの時代のドラマは真っ直ぐで熱い先生ばかりでしたからね。特に触発されたのが『3年B組金八先生』。学校の先生ってなんて素敵な職業なんだろうと感じたんです。

少年時代の思い出を楽しそうに語ってくれるたい平師匠。

幼い頃から感じていた人を笑顔にする喜び

それで武蔵野美術大学へ進学されたのですね。そこで美術の先生を目指された。

うーん、それしかなかった、というのが正直なところです(笑)。高校生活が楽しすぎて遊んでばかりいたら、「普通の大学はもう無理だぞ」と担任の先生に言われたんですね。ですが東京藝術大学出身のその先生が「勉強が苦手な俺でも先生になれたんだから、美術教師という道もある」と導いてくださって。それで美術大学を受験することにしました。

とはいえ武蔵野美術大学は難関大学です。その頃はすでに落語にご興味があったのでしょうか?

いや、まったくありません。『笑点』は両親も好きで小さい頃からよく観ていましたけど、「おもしろい発言をすると座布団が増えるゲーム番組」という印象(笑)。『笑点』は大喜利ですし、師匠方を“落語家”として認識はしていなかったんです。むしろ小・中学生はザ・ドリフターズの『8時だョ! 全員集合』、高校生は『オレたちひょうきん族』にハマっていました。さらに時代は漫才ブームの真っ只中。攻撃的な漫才を展開するツービートに衝撃を受け、高校3年の文化祭では落語研究会の後輩に「色物がほしいから、田鹿先輩出てください!(たい平師匠の本名は田鹿 明さん)」と頼まれ、“ビートあきら”の芸名で舞台に立ったんです。普段からよくやっていた学校の先生のモノマネを片っ端に披露して、全校生徒大爆笑。高校生だから内輪ネタってものすごくウケるんです。

現在のご活躍に通じる才能の片鱗を見せていたのですね。落語家になりたいという思いはなくとも、誰かに笑ってもらえる喜びや楽しさのようなものは、当時から感じていらっしゃった。

子どもの頃から人を笑わせるのはすごく好きでした。うちは夕食時に必ず誰かしらお客さんがいる家庭だったので、そのお客さんがいい気分になると「じゃあ背広一着つくるか!」ってなるんですよ。そうするとおかずが一品増えたりする(笑)。それに僕が美空ひばりさんのモノマネをしたりして、みんなが楽しい時間を過ごしていると、「早く寝なさい」とかも言われないんですね。みんなが笑顔になると僕自身も嬉しいですし、「みんなに笑ってもらえたら、ずっと楽しいところにいられるんだ」と感じていたんです。

自らの道を切り拓いてきた、たい平師匠の手。

落語と出会い、人生の舵を切る

武蔵野美術大学では落語研究会に入られたそうですが、それはなぜなのでしょうか?

何かしらのサークルには入ろうと思っていましたが、どのサークルに入るかは決めていなかったんです。それでサークルボックスという部室が並ぶ建物内をウロウロしていたら、「武蔵野美術大学落語研究会」と染め抜かれた暖簾がかかる部室があったんですね。「将来の道を決めて美大に進んでいるはずなのに、どうして落研に迷い込んでしまう人がいるんだろう」と不思議に思い、ちょっとのぞいてみたんですよ。そうしたら畳敷きの部屋に置いてあるこたつに、人の良さそうな先輩が4〜5人入っていて、「新入生? よかったら上がりませんか?」と声をかけてくれたんです。

誘われるままこたつに入り話を聞いてみると、部員の4人は4年生、1人は3年生、去年は新入生が入らなかったので、このままいくと廃部は確実。だから「どうやったら華々しく散れるか」と相談をしていたというんです。かといってその先輩方はとてもいい方で、僕を無理に勧誘したりもしないんですね。「気にしなくていいよ」って。でもまぁ僕自身、人を笑わせることは好きですし、廃部を回避できるのならと思い、そのまま落研に入りました。翌日からいきなり副部長です(笑)。新入生なのに新入生を勧誘しまくり、部員は一気に10数名増えました。

すごい、さすがです(笑)。落研に入ったことを機に落語家を志すようになったのですか?

いえ、この時点でもまだ落語に興味はありません(笑)。「落語はお年寄りがボソボソしゃべっているもの」といったイメージが強かったので、漫才をやったり、古典落語に独自の創作を織り交ぜた「笑わせたら勝ち」な落語ばかりでした。芸名は「遊々亭迷々丸(ゆうゆうてい・めめまる)」。遊んで遊んで、迷って迷ってという、人生そのもののような名前です。これはお艶(おえん)さんという先輩が付けてくれました。

たい平師匠は「僕は絵が上手くないんです」と話しますが、ご自身の個性が光る見事な作品。落語協会のカレンダーのために描いたものだそう。
では変わらず美術教師を目指していたのですね。

それは比較的早い段階で方向転換をしたというか、勉強をするにつれてデザインの世界に魅力を感じ、デザイナーとして身を立てていきたいと思うようになっていました。ある講義で先生が「デザインは人を幸せにするためにある」と仰ったんです。その言葉が頭から離れず「どうしたら自分のデザインで人を幸せにできるのか」と、日々考えるようになりました。

落語家になりたい気持ちが芽生えたのは大学3年生。夜、一人暮らしのアパートで、ラジオの音楽番組をかけながら課題の絵を描いていたのですが、その番組が終わり落語の番組がはじまったんですね。絵に集中していたのでそのまま流していたら、どんどん引き込まれ、いつのまにか落語に聴き入っていたんです。ラジオの声の主は“昭和の大名人”と称される5代目柳家小さん師匠。「粗忽長屋」という演目だったのですが、長屋の風景も、登場人物の顔も、ありありと情景が浮かんでくる。しかも毎日課題に追われていた憂鬱な気持ちが吹き飛ぶほど、幸せな気持ちで満たされていました。なんだこれはと。僕は落語にきちんと向き合っていなかったんだと、その時はじめて気付くんです。

それまで僕は「デザインは人を幸せにするためにある」という言葉を、額面通りに受け取っていたんです。紙に絵を描いたり、形をつくるだけがデザインなのではなくて、美しいカップでコーヒーを飲むと気持ちが豊かになるとか、スーパーカーに乗るとモチベーションが上がるとか、手にした人の心を揺り動かすのが本来のデザイン。デザインを通じて人に元気や勇気、優しさなどを届けられるのなら、僕はその表現として落語を使うデザイナーになろうと考えました。

取材はマルマンのショールームで行いました。

「落語一人旅」で決意した思い

美術大学でデザインを学ばれた、たい平師匠ならではのご発想ですね。

それからは落語を集中して聴くようになりました。ある日タイマー録音したラジオの落語番組を聴こうと思ったら、外国語が流れてきたんです。「あれ?」と思ってラジオ欄を確認したら、なんとロシア語。「落語」と「露語」を見間違うくらい、落語に夢中になっていました(笑)。

(笑)。それくらい真剣に向き合っていたという証のように感じます。

しかし当時は寄席に行ってもお客さんが一人か二人。バブル全盛期ということもあり、わざわざ寄席で笑わなくても、みんなが笑っていられる時代だったんです。しかも芸人になろうだなんて、ちょっと道を外れた生き方だと捉えられていましたから、“普通の人間”である僕が落語家として務まるのか不安だったんですね。

そこで自分の思いを確かめるため、大学4年生の春休みに「奥の細道」を15日間で歩き、行く先々で落語を演じる旅に出たんです。ふんどしを締め、着物を着て、下駄を履き、荷物は「落語一人旅」と書いた風呂敷包みひとつという出で立ち。普段の服装なら旅行者と同じになってしまいます。だから街に溶け込まないように変わった格好をしよう、自分を追い込もうと考えました。

そのアイデアを思いつく時点で、だいぶ“普通”ではない大学生のような気もしますが……。

そうですね(笑)。でも落語家になるということは、それくらいの覚悟が必要だったんです。最初の5日間は何もできませんでしたが、たくさんの方々との出会いがあり、人の温かさや優しさに触れることができました。僕が落語家になると誓ったのは、7日目に訪れた石巻。大学生の下手な落語でもこんなに笑ってもらえるなんて、落語はすごい芸能だな、落語家はいい仕事なんだなと確信したんです。後半は「僕は落語家になります」、「いずれテレビにも出ますので、覚えていてください」と、会う人会う人にお伝えしていました。まさに「自分が逃げ出さないために、外堀をめぐらす作業」ですね。この旅で出会った方とは、いまでもお付き合いがあるんですよ。

古典落語のあらすじなどを紹介する「毎日小学生新聞」での連載で掲載していた挿絵。『林家たい平の落語のじかん』(毎日新聞出版)として書籍化もされた。
テレビなどでたい平師匠のご活躍をご覧になった時は、みなさんとても喜ばれたことと思います。残りの大学生活はどのように過ごされたのですか?

芸の世界ですから、「大学を中退して1日でも早く芸人になる方がいいのではないか」と助言を受けたこともありました。しかし両親が高い学費を払ってまで美術大学へ進学させてくれたのに、「落語家になる」と言い出した時点で親不孝。なのできちんと大学を卒業し、両親を卒業式に出席させてあげたかったんです。落語家として大成できるか未知数の僕なりに考えた、最後の親孝行ですね。

だからこそ大学最後の1年は、これまで以上にデザインの勉強を頑張りました。卒業制作では落語家の必需品である手ぬぐいをテーマに、藍染めの型染めで6枚の連作ポスターをつくり、研究室賞もいただいたんです。卒業制作展でポスターの前にお客さんが来ると、藍染の話を盛り込んだ短い新作落語を披露したりして。卒業後デザイナーになる生徒ならまだしも、落語家になる僕に研究室賞という肩書きは必要ありません。しかし先生方は作品を正当に評価してくれた。それがとても嬉しかったです。

マルマンの「クロッキーブック」は美術予備校に通っていた時から愛用していたそう。

武蔵野美術大学を卒業後、落語家として人生を歩んでいくと決めた林家たい平師匠。後編では、林家こん平師匠のもとへ入門されてから現在に至るまで、落語、創作活動、客員教授として教壇に立つ武蔵野美術大学での講義についてなど、さまざまな思いに迫ります。

 

《プロフィール》

 

林家たい平(はやしや・たいへい)
落語家

 

1964年埼玉県秩父市生まれ。武蔵野美術大学造形学部卒業。1988年8月林家こん平に入門。1992年5月二つ目に昇進し、「NHK新人演芸コンクール」優秀賞をはじめ数々の賞を受賞。2000年真打昇進。2006年から日本テレビ『笑点』の大喜利メンバー。2008年「第58回芸術選奨文部科学大臣新人賞」受賞。2010年より武蔵野美術大学造形学部芸術文化学科の客員教授を務める。「たい平ワールド」と呼ばれる芸風で老若男女を問わず多くのファンに支持され、子どもたちへの落語普及にも熱心に取り組む。近著『はじめて読む 古典落語百選』(リベラル社)をはじめ、著書多数。落語CD「林家たい平落語」シリーズ(日本コロムビア)、落語DVD「落語独演会DVD-BOX」(竹書房)など。