元プロ野球選手 五十嵐亮太さん(前編)
- Sketch Creators Vol.12
「無我夢中になり、無心になれる、『絵を描く時間』が好きなんです」

sketch(スケッチ)とは、人物や風景などを描写すること。連載インタビュー企画「スケッチクリエイターズ」では、素晴らしいクリエイションを生み出すさまざまなクリエイターへのインタビューを通じ、彼らの創作背景を言葉と写真でうつしとっていきます。

第12回目となる今回は、元プロ野球選手で現在はプロ野球の解説者など、幅広い活躍をされている五十嵐亮太さんにご登場いただきます。五十嵐さんは高校を卒業した1997年、ドラフト2位指名で東京ヤクルトスワローズへ入団。2010年にメジャー・リーグに挑戦し、2013年に日本球界に復帰してから2020年に引退するまで、最優秀バッテリー賞や最優秀救援投手賞、日米通算906試合登板の達成など、数多くの輝かしい成績を残されています。そんな五十嵐さん、実は幼い頃から絵を描くことがお好きなのだとか。前編では五十嵐さんの野球との出会いから野球人生におけるターニングポイント、そして絵を描くようになったきっかけなどをお聞きしていきます。

野球の楽しさに魅了された少年時代

五十嵐さんと野球との出会いについてお聞かせください。

北海道に住んでいた小学1年生のとき、地元の野球チームの監督が母に「お子さんを野球チームに入れてみませんか?」と声をかけてくれ、僕自身も興味をもったことがきっかけです。いざ野球を始めてみると、自分は人より肩が強いことが分かったんですね。まだそんなに上手ではありませんでしたが、ボールを投げる行為がとにかく好きになりました。やっぱり子供って、褒められると嬉しいじゃないですか。だから肩の強さを褒められることで、自尊心が満たされていったのでしょうね。

やはり当時からプロ野球選手を志していたのですか?

もちろんプロ野球選手になりたい気持ちはありました。だけど幼少期はその夢を現実的に考えるよりも、ただただ野球が好きで、楽しくて、そんな思いが先行していたんです。平日は近所の友達と公園で野球をして、週末は野球チームでプレイする。毎日、野球ばかりしていましたよ。勝負へのこだわりが芽生えてきたのは、ある程度年齢を重ねてからですね。それと比例するように、どんどん野球へのめり込んでいきました。

「小さい頃は母がよくキャッチボールの相手になってくれました」と五十嵐さん。

野球人生を変えた監督との出会い

千葉県・敬愛学園高等学校に進学される前は、内野手をされていたのですよね。

ええ。ですが小学3年生までは肩の強さを買われてキャッチャーを、千葉県に引っ越した小学4年生からは速いボールが投げられたのでピッチャーをしていたんです。だけどいかんせんコントロールが悪く、三振はとれるものの、フォアボールを連発してしまって。でもそれを気にしていたら、楽しいはずの野球がつまらなくなってしまいます。だから僕はお構いなしに全力投球していました(笑)。いまとなってはチームメイトにだいぶ迷惑をかけたなと反省しています。

中学校に上がると千葉北リトルシニアに所属したのですが、チームメイトにいいピッチャーがいたので、僕はファーストになりました。打順は7番。やりたかったピッチャーができない、守備が特別上手いわけでもない、さほど打つこともできない、そんな状況でしたので、正直あまりおもしろくはなかったですね。相変わらず肩だけは強かったんですけど、それを生かすこともできませんでしたし。野球が好きだから、続けられたのだと思います。

五十嵐さんの「野球が好き」という思いは、言葉の端々から伝わってきます。
ずっとエース街道を歩んでこられたイメージがあったので、そのお話は意外でした。

プロ野球選手になる人間がみんな小学生の頃からエースで4番かといったら、必ずしもそうではありません。少なくとも僕は、そのタイプではなかったんですね。どこかで急に伸びるタイミングもあるだろうし、監督やコーチとの出会いが契機となる場合もあります。僕にとってのそのタイミングは高校生のとき。敬愛学園高等学校野球部の古橋富洋監督が、内野手だった僕に「ピッチャーをやらないか?」とポジションの転向を勧めてくれたんです。そのおかげで僕はピッチャーになれました。もし古橋監督と出会っていなければ、プロ野球選手になっていなかったと思います。

古橋富洋監督は五十嵐さんの強肩に目をつけ、1年生のときからピッチャーとしてマウンドに上げたそうです。

メジャー・リーグへの挑戦によって得たこと

古橋監督とは、人生の分岐点ともいえる出会いだったのですね。23年にわたる現役生活のなかで、ターニングポイントとなった出来事はありますか?

アメリカ、メジャー・リーグでの経験はとても大きかったです。もちろんヤクルトスワローズでも、チームが最高の環境を与えてくれたおかげで、いい監督、いいコーチ、いい選手と出会え、野球との向き合い方をしっかり学ぶことができました。ただ自分のなかで描く理想のイメージに、近づいているようで近づいていない時期がけっこう続いたんですね。ヤクルトはとても暖かい球団で、居心地もいい。そこに甘えているつもりはなくても、長く居続けたことで、どうしても結果にあらわれてしまっていたんです。いろいろな葛藤に苛まれていたとき、ちょうどFA権を取得できるタイミングとなっていました。それはあえて厳しい環境に身を置き、新しいものを身につけたい、新しい世界を見てみたい、という希望を求めていたタイミングでもあったんです。

アメリカへ渡ったことでこれまで見えていなかったものが明確となり、日本のプロ野球に復帰した際にそれを生かすことができたんです。メジャー・リーグでの経験は僕の人生観を変えてくれたといっても、過言ではありません。

日本球界に復帰した翌年の2014年には、当時のパ・リーグ最多記録となる44ホールドをマークし、福岡ソフトバンクホークスの日本一に貢献されました。

メジャー・リーグへ行く前は出来なかったことが、出来るようになったんです。そこには悔しさと同時に達成感がありました。それを生かさずに引退してしまったら、悔しいままで終わってしまいますよね。これまでやってきたことを自分自身に納得させるためにも、何としても結果を残したいという強い思いがありました。

五十嵐さんは、ニューヨーク・メッツ、ピッツバーグ・パイレーツ、トロント・ブルージェイズ、ニューヨーク・ヤンキースと、メジャー・リーグの人気チームをわたり歩きました。

キャリアを重ねていくうえで大切なこと

23年という長い現役生活を続けてこられた秘訣は何だったのでしょうか?

やはり身体づくりですね。健康であることが、何より大切だと考えています。怪我をして、シーズンを棒に振ってしまうことは僕にもありました。しかし自分がどうなりたいかをはっきりとイメージし、怪我をしないために、シーズンを乗り切るために、さらにその先を見据えて身体をつくっていく。自分に足りないものは自然とみえてくるので、それを補う練習も必要です。そこにどれだけ時間を注ぎ、夢中になって取り組めるかがキモになってくる。たとえ不器用であっても、野球と懸命に向き合っている選手は結果的に一軍に残りますから。

心構えとそれにともなう行動が大切なのですね。

これらはルーキーイヤーからいえることなんです。プロ野球界は、高校野球、大学野球、社会人野球のトッププレイヤーたちが集まる場所。そのなかで上を目指すのなら、自分のスタイルを変えられない人が生き残っていくのは難しいと思います。貫き通さなければならないところは確かにありますよ。だけどたとえ調子がよかった頃であったとしても、過去にすがるのはよくありません。貫くところは貫き、捨てるものは捨てる。そのバランスがとても大事なんです。

「とてもいい環境で野球をやらせていただいたなと、感謝しています」と五十嵐さん。
野球界に限らず、あらゆる業界に通じるお考えのように感じます。

僕自身、たくさんのトッププレイヤーに囲まれ、彼らから多くを学びました。野球での経験は私生活でも生きるのだなと、引退して改めて感じています。たとえばテレビに出演させていただく際、ある程度の緊張はしますが、その度合いはそこまで高くありません。何かで失敗したとしても、それを繰り返さなければ次で挽回もできる。このようなマインドでいられるのは、野球をやっていたからこそだと思っています。

いいことばかり重なればベストですが、そうそう上手くはいきませんよね。そんなときの心の準備や、具体的な対処法など、常に物事の前後を考えながら進めていけるようになりました。現役を引退し、また新しい人生が始まります。しかしゼロからのスタートという感覚ではなく、スムーズに別の仕事へ移行できているなと感じますね。

五十嵐さんはプレースタイルはもちろん、明るい性格とフランクで温かなお人柄で、いまもなお多くの野球ファンから愛されています。
プロ野球選手引退後のセカンドキャリアとして、どのような人生を歩んでいこうとお考えになりましたか?

刺激を求めたいと思いました。それも強い刺激を。僕は現役時代、906試合登板をさせてもらったのですが、すべてのゲームでずっとドキドキしていたわけですよ。慣れることなんてなくて、もう毎回、緊張するんです。だから心臓に悪い(笑)。だけどあの緊張はマウンドでしか味わえないもの。それ以上の緊張はまずないんです。もともとの性格もあるのかもしれませんが、好きなことで刺激が得られたら嬉しいですね。

僕は無我夢中になり、無心になれる瞬間が好きで。そのひとつが「絵を描くこと」なんです。

真剣な眼差して絵を描く五十嵐さん。

「建築家」というもうひとつの夢

絵を描くようになったのは、いつ頃からですか?

小学生の頃ですね。絵画教室にも通っていて、水彩絵の具やクレヨンを使い、いろいろな絵を描いていました。図工の授業が得意で、版画や彫刻なども楽しかったですよ。描いたり、つくったりする時間が、当時から好きだったんです。

だから高校では建築科を専攻したんです。もしプロ野球選手にならなければ、建築やデザインの道に進みたいと考えていました。

五十嵐さんに建築家としての未来もあったとは。驚きです。

むしろ高校に入学したばかりの頃は、建築家になりたい気持ちの方が若干強かったんです。設計の授業は2時間連続だったのですが、僕は休み時間になっても手を止めず、夢中になって図面を書き続けていました。試合でいったら、先発から登板して完投するまでとほぼ同じくらい。授業で集中力が持続すれば、野球の集中力も上がるかなと思ったんです。僕は昔からひとつの行動に何かに繋げて、プラスしたい男なんですよ。効率的といえば聞こえはいいですが、ある意味ずる賢いんだと思います(笑)。

五十嵐さんのご自宅にはマルマンの「図案スケッチブック」がたくさんあり、絵を描かれているそう。
建築家を目指しながらも、プロ野球選手になられました。プロを意識するきっかけがあったのでしょうか?

プロを意識したのは高校2年生で出場した春の大会です。対戦チームに注目の選手がいたので、スカウトが見に来ていたんですね。そこで僕はチャンスだと思い、めちゃくちゃいいピッチングをしたんですよ。それを見たスカウトは僕にも興味をもってくれ、自分目当てで試合に来てくれるようになったんです。その頃からですね。これまで以上に練習に精を出すようになったのは。高校2年の春から3年の夏にかけて、全力で頑張ればプロに入れるかもしれない。その一心でした。その結果がいまにつながっています。

五十嵐さんがパステルで描いたスケッチ。

野球への情熱や野球人生を歩むなかで培ってこられた人生観など、五十嵐さんの言葉の数々に胸を打たれます。後編では、五十嵐さんの絵にかける思いや絵を描く時間などを、より深くお伺いしていきます。

 

《プロフィール》

 

五十嵐亮太(いがらし・りょうた)
元プロ野球選手

 

1979年北海道生まれ。1997年にドラフト2位指名で、東京ヤクルトスワローズに入団。その後2003年にクローザーに転向し、最優秀救援投手のタイトルを獲得するなど、名実ともにヤクルトスワローズの守護神となった。2009年11月にFA権を行使し、2010年シーズンからMLBニューヨーク・メッツに入団。2012年からはピッツバーグ・パイレーツ、トロント・ブルージェイズ、ニューヨーク・ヤンキースとMLBを渡り歩く。2013年より福岡ソフトバンクホークスに移籍し、日本球界復帰。2014年シーズンには63試合に登板、1勝3敗2セーブ44ホールドで防御率1.52の成績を上げ、福岡ソフトバンクホークス日本一の立役者となる。2019年から古巣・東京ヤクルトスワローズに在籍。日米通算で史上4人目となる900試合登板を達成。2020年のシーズンを持って引退を表明。引退後は、野球だけではなくさまざまな領域に挑戦中。