イラストレーター イナコさん(前編)
- Sketch Creators Vol.13
「食の記憶を膨らませ、“美味しそう”を表現する」

sketch(スケッチ)とは、人物や風景などを描写すること。連載インタビュー企画「スケッチクリエイターズ」では、素晴らしいクリエイションを生み出すさまざまなクリエイターへのインタビューを通じ、彼らの創作背景を言葉と写真でうつしとっていきます。

第13回目となる今回は、イラストレーターのイナコさんにご登場いただきます。イナコさんが描く作品のモチーフは食べ物が中心。水彩画で描かれたシズル感あるイラストは味や香りまで伝わってくるようで、見る側の食欲を刺激します。しかしイナコさんはイラストレーターとしてキャリアをスタートした頃はデジタルで絵を描き、食べ物も描いていなかったそう。前編ではイナコさんがイラストレーターを志した背景や、食べ物を描き、水彩画に取り組むようになったきっかけなどをお伺いします。

絵がコミュニケーションツールだった学生時代

幼い頃から絵を描くことがお好きだったのですか?

私は小さい頃から、絵を描くことしかできない人間なんです。運動は苦手ですし、手で何かものをつくるのは、好きなのに結果が伴わないことばかり。でも絵は上手に描けなくても、ずっと描き続けていました。性格も人見知りをしてしまうタイプなので、学校では友達のつくり方が分からなかったんですね。だけど机に向かって絵を描いていると、「上手だね」とみんなが集まってきてくれて、自然と友達になれたんです。だから私にとって絵は、コミュニケーションツールでもありました。

素敵なエピソードですね。その頃は主に何で絵を描かれていましたか?

らくがき帳のような普通のノートと鉛筆で、少女漫画のキャラクターなどを描いていました。私、すごく筆圧が強いんですね。だから絵を描いたあとに色を塗ろうとすると、紙に残った鉛筆の跡が浮かび上がってしまうんです。色ムラも嫌いだったので、当時から色鉛筆は得意ではなくて。中学では美術部に入部し、ポスターカラーを使うようになりました。ポスターカラーは厚塗りをすると、色ムラがでないんです。なのでポスターカラーは好きでしたね(笑)。

中学校の美術部では、丸や四角など図形を用いたポスターを描いていたそう。

絵の仕事にたどり着くため、グラフィックデザイナーに

イナコさんはグラフィックデザイナーとしてキャリアをスタートされています。高校進学後、「デザイナーになる」という思いが固まったのでしょうか?

何かしら絵を描く仕事に就きたかったのですが、具体的にどんな仕事かが思いつきませんでした。アニメが好きだったので、アニメーターを志した時期もありましたが、均一な絵を描き続けるのは性格的に難しい。物語がつくれないから、漫画家も自分には無理だろうと。イラストレーターという職業も知ってはいましたが、どうやったらなれるのかなんて分かりませんでしたしね。アニメのセル塗りや特殊印刷物といった、ムラのない色面は変わらず好きでしたから、グラフィックデザイナーならば自分にはできそうだなと考えたんです。デジタルならば、筆圧も関係ないなと(笑)。

だから高校卒業後は地元の岡山県内の短大へ進学し、そのあと京都にあるグラフィックの専門学校に通ったんです。高校の美術の先生に「美術大学の受験を考えてみたら?」と声をかけられたこともあったのですが、受験に必須なデッサンへの苦手意識が強すぎて、美大への進学は一切頭にありませんでした。

「高校時代の私は『デッサンはしたくない』と頑なでした」とイナコさん。そのため美術部へも入部はせず、弓道部に所属したそうです。
確かにデジタルならば筆圧を気にすることなく、絵が描けますね(笑)。

そうなんです。デジタルで絵を描くことを覚えると、これは自分に向いているなと感じました。自由に描ける鉛筆とは違うものの、私が好きなムラのないカッチリした絵を描けたんです。これならば絵が描ける。グラフィックデザイナーになれば、自分がデザインする範囲で絵を描くこともできるかもしれない。そんな風に思い、岡山のデザイン事務所に入社しました。

そのデザイン事務所には3年ほど勤め、そのあと東京に拠点を移されたとか。

私がグラフィックデザイナーになったのは、絵を描く仕事に辿り着くためでした。だから入社した時点で3年と期限を決め、退職後1年間は岡山で上京準備をし、そして東京に拠点を移したんです。いまならSNSも普及していますし、岡山でもイラストレーターとしての活動ができるかもしれません。でもあの頃はいきなり地元でイラストレーターとして活動できる環境でもなく、出版社の多い東京に出ることにしたんです。最初の1年は契約社員のデザイナーとして働きながら。並行して出版社へ営業に行き、雑誌のお仕事をいただくなどして、2005年にイラストレーターとして独立をしました。

イナコさんはアーティストの及川光博さんの大ファン。仕事の休憩に絵を描くことが多いそうで、そんなときによく及川さんを描いているとか。

デジタルから水彩へ、使用画材を変えた理由

独立当初も、現在と同じような作風だったのですか?

いえ、ぜんぜん違うんですよ。現在は手描きが主ですが、当時はデジタル一辺倒でしたし、キャラクターチックな絵を描いていました。絵を描きたい思いは常に抱いているのですが、描きたい作風はとくになかったんです。オーダーに合わせて、クライアントが希望するタッチで描くことがほとんどでしたね。イラストレーターになって10年近くは、筆圧を気にせず、色ムラなく仕上げられるという点も含め、デジタルでの表現がとても好きだったんです。自分の思いのままに描けましたから。

デジタルで制作を行っていた頃のイナコさんのポートフォリオ(写真左)と、食べ物を中心に描き始めた頃のポートフォリオ(写真右)。「手描きからスタートしていたら、私はイラストレーターになれていなかったかもしれません」とイナコさん。
食べ物のイラストを中心に描くようになったのは、2013年頃からだそうですね。そのきっかけとは?

もともと食べることが好きだったんです。ご依頼いただいたイラストに食べ物が入っていた際、食べ物がメインではなくても、「とても美味しそうに見えますね」と評価していただくことも多くて。私はほかのイラストと同じように描いているつもりだったのですが、どうやら熱量が違うらしいと(笑)。また、同時期に個人クリエイターが出展する大規模な展示会「クリエイターEXPO」に参加するつもりでいたのですが、「何でも描けますよ」だと来場者の方の目に止まりません。何かひとつに絞るならば、自分は食べ物を中心に描いていこうかなと考えるようになりました。

マルマン「ボッキングフォード水彩紙 ブロック 細目」に描かれた串揚げと煮込み。「ボッキングフォード水彩紙」シリーズはイギリスのセントカスバーツ製紙工場で製造された水彩紙で、羊毛糸フェルト仕上げの特長的な紙肌をもち、耐久性にも優れています。「ニュアンスが描けるので、私は細目が好みです。紙のサイズを小さくカットして使用しました」とイナコさん。
ブランドサイト:https://www.e-maruman.co.jp/lp/st-cuthbearts/bockingford/

水彩画に挑戦したのもその頃です。食べ物を描き始めた最初の方は、デジタルで描いていたんですよ。だけどデジタル特有のマットな表情が、だんだんおもしろくなくなってきたというか。食べ物の焼きムラやグラデーションを1から10まで計算して描いていくため、仕上がりが硬く、どこか温度感がないような気もしていました。綺麗には描けるのですが、私が思う「美味しそう」までたどり着くには、とても時間がかかるんです。それで水の量ひとつで表情が変えられる水彩に、取り組んでみたいと思うようになりました。ただ水彩は、不器用な自分には扱いきれないと思っていたんですね。でも手描きで絵を完成させることに、ずっと憧れのようなものは抱いていて。

イナコさんの画材ケース。愛用の水彩絵の具に加え、水彩色鉛筆、色鉛筆、クレヨンが1本の鉛筆になったLYRAの「グルーヴ・トリプルワン」も仲間に加えてくださっています。「グルーヴ・トリプルワンは描き味が柔らかく、全体の色味を仕上げることができます」とイナコさん。
製品詳細:https://www.e-maruman.co.jp/products/detail/l3831120.html
それで水彩画を始められた。

はい。水彩画に取り組む前、1年ほどデッサンを習っていたことも大きいですね。小・中学生の頃のように、アナログで描く楽しさを取り戻し始め、私はデッサンが嫌いではなかったんだと気付いたんです。要は描き方を知らなかっただけ。ネックだった筆圧の強さも、鉛筆の種類や描く順番によってカバーできる。決してスペシャルではないだろうけど、私の技能でもできるんだなと、小さな自信を得られました。それならばと、水彩画のワークショップに参加してみたんです。

マルマンの「クロッキーブック」で、人物デッサンの練習もされているそうです。

水彩は作品がどことなくゆるく仕上がるんです。表現における“ゆらぎ”が、自分にあっているなと感じました。デジタルのように計算をせず、私の大雑把な性格のままに色を塗っていくことが、「美味しそう」につながっている。デジタルよりも水彩の方が、自分の求める表現ができたんです。いまはいただくお仕事のほとんどが、水彩でのご依頼ですね。

コラム記事の挿絵として描かれたカツ丼と深川飯、合鴨の焼鳥丼のイラスト。食欲をかき立てる作品です。紙はマルマンの「図案スケッチブック」を使用。
ブランドサイト:https://www.e-maruman.co.jp/lp/zuan/

「美味しい」と感じたものだけを描く

イナコさんの作品は、とても「美味しそう」です。美味しさを引き出す表現のポイントをお聞かせください。

特に何かを意識しているわけではないので、難しい質問ですね……。ただ私が描いている食べ物は、すべて自分が食べて美味しかったものになります。だから「このピザの耳は香ばしくて、ムチっとしていたな」など、食べたときのことや味を思い出しながら描いていく。その食べ物の好きなポイントをとらえて描いている気がします。最中の皮がパリパリだったら角をしっかり描きますし、しっとりしていたらボカして描くイメージです。

イナコさんが絵を描いていて、とくにテンションが上がるというモチーフは「たまご」。「卵は絵が一気に華やかになるから好きなんです。食べるのももちろん好きですよ」とイナコさん。

絵画教室だと、「被写体をよく観察して描きましょう」と教えたりしますよね。描くものが食べ物なら、食べたい気持ちを抑えて、観察しながら描きます。私は「観察しながら食べちゃえばいいんじゃないかな」と思うんですよ(笑)。

マルマンの「クロッキーブック」に描かれたオムライスのラフスケッチ。ふわふわのたまごと濃厚なデミグラスソースの、絶妙なハーモニーが伝わってきます。
ブランドサイト:https://www.e-maruman.co.jp/lp/croquis/
なるほど。イナコさんの「美味しい」の記憶が作品に投影されているからこそ、作品を観た人もその美味しさを共有しているかのような気持ちになるのですね。作品はどんなプロセスで仕上げていくのですか?

まず下絵となるラフを描き、その紙の裏に水彩色鉛筆でざっくりと色を塗り、下に清書用の紙を敷いて、絵の写し取りを行います。ラフの線に沿って尖らせた5Hくらいの鉛筆や鉄筆でなぞっていくと、清書用の紙に色鉛筆の色が写り、ラフの絵が現れるんですね。それをベースに絵を仕上げ、描き終わったらパソコンに取り込み、形や彩度を微調整して完成です。私は相変わらず筆圧が強いので、いきなり清書用の紙に描くことはほとんどしません(笑)。

ピザのラフの裏側に水彩色鉛筆で色を塗り、清書用の紙に写し取りを行っていきます。「一般的な色鉛筆は油性のため、うえに水彩絵の具を塗ると水を弾いてしまうんですね。だから写し取りには水彩色鉛筆を使用しています」とイナコさん。このとき使用したのはLYRAの水彩色鉛筆。

清書用の紙にうっすらラフの絵が現れます。

実際にイナコさんが食べたピザの写真(写真上)と、ピザの絵のラフ(写真左)と、完成したピザの絵(写真右)。

色を付けるときは、塗り絵にならないように気をつけています。塗り絵になると、仕上がりが「美味しそう」から離れ、硬くなってしまう。自分が感じた食べ物の味や食感、色を思い出し、イメージを膨らませていくんです。参考にするのは、自分で撮影した食べ物の写真が多いですね。とはいえ色を塗る段階になると、自分の中のイメージが自然と優先されていくので、参考にした写真は見なくなります。だから写し取りをした線に引っ張られない仕上がりになるんですよ。絵にするのは、自分が美味しいなと感じたものだけ。お皿を前にすると、光や照明の加減で食べ物がキラキラして見えますよね。そんな食べ物の一瞬の表情を、描きたいんです。

「イナコ」さんというペンネームは、グラフィックデザイナー時代のあだ名だそうです。

ご自身の食の記憶や体験を絵で表現されているからこそ、イナコさんの絵がとても「美味しそう」なのだなと感じます。後編では、イナコさんが作品制作で使用する紙選びのポイントなどをご紹介。実はイナコさん、マルマン製品のヘビーユーザーでもあるそうです。

 

《プロフィール》

 

イナコ(いなこ)
イラストレーター

 

岡山県出身。グラフィックデザイナーとしてキャリアをスタートし、2005年にイラストレーターとして独立。2013年より食べ物のイラストを中心に描く。雑誌、書籍、広告、WEB媒体など、幅広く活動をしている。